2009年01月06日

本「かくれ里」 白洲正子



本を読んでなにがいいかと言って
「その気にさせられる」
ことほどお得な気分に浸れることはありません。
本書はその一つ。
主に畿内を中心とした静かなしかし歴史ある
「かくれ里」を巡る紀行文ですが、
読むうちに「行きたい」「見たい」果ては
そこに居るような気分になれます。
なにがあって綺麗だとか、
なにを食べておいしいとか、
そういう情報は少ないですが、
それを補ってあまりある人々の生活、習慣、
そして歴史がなによりの御馳走。
読後それぞれのかくれ里が
まるでなじみのふる里のように思えてきます。

近畿圏で育ちますと、
「一歩踏み込めばそこは歴史」
という感触を、子どもの頃から叩き込まれます。
まず小学校の耐寒遠足が明日香村だったりしてね。
公私問わず始終神社仏閣に連れて行かれては
でかい仏様を拝み鳥居をくぐり、
長じてクルマに乗れるようになりますと
あのあまり高くもない周りの山々が、
実はそれぞれ歴史とそれを護る人々を
抱えているという事実を思い知ります。
高野山なんてホント秘境でねぇ。
クルマで登りますと「ナビ間違ってんじゃないか」という
細道が延々続きまして、
いきなりパーッとあの天地が広がります。
花の吉野に参りますと、
赤絨毯カップ酒で酔っぱらうオッサンの真横から、
楠公がぬっと現れそうです。

それは一面誇りであり豊かさであるのですが、
重く鬱陶しいのも事実でして、
札幌のような新しい街に行きますと
訳のわかっている明治からこっちの、
なんというか「話のできる人間」しか居ない気がして、
なんかもう心が青空になります。
漱石が京都をボロカスに書いてる文章がありますが、
あの気持ちは我々ご当地者でもわからんでもない。
神サンとか仏サンとか
にゅっと出てこられたら、
私ら人間は手も足も出ない。
いくら「人間とは」を組み立てようと努力しても、
町屋の奥から平のなんとか(の御霊)がニッと笑うわけです。
努力の甲斐がない。

しかし、それもこれも含めて
人間というのは大きな流れの一部でして、
それはどの街に棲んで居ても結局は同じ。
まあ、しょうがないかな、と諦めて
そういうモロモロをお慰めしつつ
仲良くやっていく他ありませんな。

「神は死んだ」とニーチェは言いましたが、
奈良の奥山、ダム湖のほとりで
一人寝袋にくるまっておりますと、
到底そんな気にはなれません。
神も仏も精霊も妖精も妖怪も猫娘もいますよ。
いますよというか、
彼らは人間なんです。

posted by ながたさん at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) |